トップページ > 遠足 > 第47回

第47回 空高き遠足  「貞奴ふたたび」

日程

  • 2012年9月29日(土)〜30日(日)

案内人

  • 木下直之(東京大学)
サンプルイメージ

昨年11月26日に開催した第44回遠足は、川上音二郎と貞奴がともに暮らした茅ヶ崎に、ふたりの足跡を訪ねる旅でした。今回はその続編であり、音二郎と死別したあとの貞奴をさらに追いかけます。貞奴は音二郎の7回忌を済ませると、大正7年に名古屋の二葉御殿で福澤桃介との暮らしを始めます。その後、昭和8年に木曽川に面した鵜沼に私財を投じ、貞照寺を建立、仏道三昧の晩年を送りました。同寺の貞奴縁起館では、貞奴の遺品が大切に保管されています。木曽川の対岸には貞奴の別荘萬松園も残されています。また、名古屋市内の二葉館は和洋折衷の豪勢な邸宅で、近年、移築・復元され、名古屋城と徳川園をつなぐ「文化のみち」の拠点として使われています。あわせて、本丸御殿の復元工事が進む名古屋城を訪ねます。


行程

サンプルイメージ

9月29日(土)
12:00-13:00 萬松園  岐阜県各務原市鵜沼宝積寺町3-82-2
14:00-16:00  貞照寺 岐阜県各務原市鵜沼宝積寺町5-189
19:00-21:00  懇親会・「畳畳」 

9月30日(日)
10:00 二葉館  名古屋市東区橦木町3-23   
12:00 名古屋城
13:00 解散
14:00 オプション東山動植物園 
17:00 解散


空高き遠足 貞奴ふたたび 事業家として、妻として、そして仏教信者として有賀沙織(KASSAY有限責任事業組合代表)

サンプルイメージ

 2012年(平成24) 9月29日。台風が近づき、天候が危ぶまれる曇り空のもと、新幹線に乗って東京から名古屋で降り立ち、名鉄線に乗り換え長閑な風景を眺めながら岐阜県の鵜沼を訪れた。前年11月の遠足「茅ケ崎芸能散歩——川上音二郎・貞奴の足跡をたどる」の続編として、川上音二郎没後の川上貞奴の晩年の人生を辿る1泊2日の遠足であったが、私は1日だけ参加させていただいた。
 前年の遠足の折に案内人の古井戸先生は川上貞奴の生涯を「奴時代」とする女優になる前の時代、「貞奴時代」とする女優の時代、「事業家・貞時代」とする後半生の3期に分けられるとご解説くださったが、今遠足はまさに「事業家・貞時代」の時代を旅する機会だった。
 1918年(大正7)、貞奴は音二郎との死別の後、福澤桃介と名古屋の二葉御殿での暮らしを始める。貞奴は川上絹布会社を設立させるが5年後に閉鎖する。その後、川上児童楽劇団の落成や、桃介の大井ダムの大事業を支えるなどをするが、1933年(昭和8)に病の桃介が渋谷の本宅に帰ると、同年、貞奴自らを癒すための別荘として鵜沼に萬松園を創り、そして私財を投じ、貞照寺を建立した。国道21号線によって、萬松園と貞照寺は分けられているが、この二つの建物は一体不二のコンセプトで設計されたものであり、貞奴の3つの時代の姿すべてが投影されているように私には感じられた。
サンプルイメージ 最初にボランティアの方に案内していただいた萬松園は、玄関から仏間にいたるまでの数室は晴(非日常)の場として意識され、『源氏物語』の世界を展開させた「マダム貞奴」にふさわしい豪華絢爛の住まいであった。材料は最良のものを用い、選りすぐりの職人らが集い、芸術性を高めようと、これ以上ないほどの贅と工夫をこらしている。また桃介が電気事業を営んでいたことから萬松園の照明は当時の最先端のものが使われており、今日の生活の灯と比べても引けはとらない。日当たり最高のサンルームは室内外の建具を板硝子の扉や雪見障子など、硝子にこだわった意匠になっている。庭に出ると、木曽川が静かに流れている。ここで貞奴は川遊びもしたようである。野外で使える愛用の移動式テーブルがそのままのかたちで残っている。
 一方、この別荘の怪(日常)の場はどこか悲しい。水屋を出たところに藤袴の間と呼ばれる部屋がある。御物棚があり、貞照寺と同じ向きにつくられた仏壇が置かれているのだが、ボランティアの方は、ここで音二郎を弔ったであろうと解説くださった。しかし、私には晩年の紫の上が出家を願いながら、果たせぬ夢を祈ったように、祈りを捧げていたようにも感じられた。寝室は、呼び鈴で人を呼ぶことはできるようであるが、薄暗く寒々しい。もっとも冬は寒かったために、疎開以外での滞在はなかったようであるが。
 萬松園の門を出て、国道21号線を渡り、貞照寺に着くと、この寺を守る尼僧の渡辺さんが迎えてくださった。貞照寺は伊勢湾台風の折、被害を受けたことをきっかけに成田山の系列となり、今日まで守られている。貞照寺は名古屋の宮大工伊藤平左衛門により3年近くの歳月をかけて建築され、本尊不動明王は仏師小川半次郎の制作による。渡辺さんは寺の由来の簡潔なご説明のあと、本堂にご案内くださり、細腕で大太鼓を強く打ちながら、高く透通る声色でご祈祷をしてくださった。

サンプルイメージ

 昭和8年、ここで落慶入仏法要が盛大に行われた。この時の映像を前年の茅ケ崎の遠足で見せていただいた。孫の手をひいて、近隣から集められたお稚児らとともに歩く貞奴の姿は凛としていた。
 渡辺さんの祈祷が終わり、本堂を見渡すと、玉垣には貞奴に縁のある政財界、演劇人の名が刻まれている。今日まで続く川上貞奴の存在感の大きさに圧倒される。その中には、某有名プロダクション社長や貞奴を演じた女優の名も刻まれていた。
 本堂から一歩出ると、金子光清作の全8枚の本堂胴羽目浮彫がまわりを囲んでおり、これらが紙芝居のごとく貞奴の人生の中で得た仏教の教えを具体的に教えてくれる。8枚すべてに共通するのは、「信心深く、念仏を唱えていれば、試練の折に仏様が救ってくださる」という物語であるが、貞奴の想いが特に顕著に現れている物語が本堂を囲む8枚目の本堂胴羽目浮彫に刻まれている。貞照寺所蔵の下絵の解説には「大正十三年頃、木曽川を横断してダムを築き水力電気を起こさんとする福澤桃介の為、一身偽性の念願を籠め空前の難工事を完成せしむ」。福澤桃介の事業を支える献身的な妻の姿が思い浮かぶ。
 貞照寺に所蔵されている貞奴の自筆には「終始一誠意」と残されていた。この言葉こそ、芸者として、女優として、事業家として、妻として、そして仏教信者として生きた貞奴の人生そのものだったのだろう。

ページトップへ戻る
©2002-2023文化資源学会