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第29回 木枯らしの遠足  「多磨霊園墓参」

日程

  • 2008年11月22日(土)

案内人

  • 藤井恵介(東京大学)
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以下のような、多磨霊園の諸相を見学します。

  1. 大正12年開設。当時、青山墓地・谷中墓地・染井墓地・雑司ヶ谷墓地・亀戸墓地(後に廃止)の5つの公営墓地があったが、市街地化と人口増加の影響で墓地が不足した為、市外に墓地を造る必要に迫られて計画、開設。
    都心から遠隔地に開発された初めて墓地。地方から東京に移り住んだ人々が、故郷の寺の墓地に埋葬されるのでなく、東京に墓地を求めた。長男は地方に墓地があったが、そうでない分家は、東京に墓地が必要だったのだろう。(もともと東京に住んでいる人々は、寺に墓地を持っていたはず。)

  2. 門前にある「石屋」さん。墓石の制作、設置、墓地の掃除、管理、法事の手配、その後の宴会の開催まで、一連の「法事」引き受ける。石屋特有の建築。お店、お休み場所、座敷、住宅。
    多くが、以前の霊園から移ったか、その支店を出したようで、独特の商店街を形成する。 近年は墓石の新築はほとんどなく、マイカー墓参が増えたので衰退気味。

  3. 墓石の様々。古典的な形、西欧の墓廟、納骨堂、古墳形、装飾要素が全くないもの(東郷平八郎、山本五十六など)など、多種多様。石屋さんが手配、制作したものだが、一部は建築家が関与した。
    大正末〜昭和戦前期の多様な墓石が見られる。「墓石の造形学」が可能では?
    (近年の墓石は、バリエーションが減っているのではないか?)

  4. 近代都市計画的な墓地の配置計画(ドイツ風らしい)。近年では、無縁化した墓地の再開発が実施される。大区画から小区画に分割。まるで現代都市のミニ開発と同じ様相が展開している。

木枯らしの遠足「多磨霊園墓参」に参加して山田 直子 YAMADA Naoko(女子美術大学美術館)

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 2008年11月22日、文化資源学会第29回遠足「多磨霊園墓参」に参加し、東京大学 藤井恵介氏、角田真弓氏、吉田知峻氏のご案内により多磨霊園を見学した。

 多磨霊園が開設されたのは、大正12年(1923)。当時、東京市には青山墓地・谷中墓地・染井墓地・雑司ヶ谷墓地・亀井墓地(後に廃止)の5つの公営墓地があったが、市街地化と人口増加の影響で墓地が不足したため、市外に墓地を開設したそうである。

 西武多摩川線多磨駅に集合した一行は、まず、参道沿いの石屋さん(石材店)を見学した。最初に見学した太田家の表には「御案内休憩所」とあり、中の土間は座って休めるようになっている。奥座敷もある。多磨霊園の地図が掲示され、花が売られている。地下へ続く穴を発見し、一同覗き込む。それは防空壕だった。外へ出て、隣の石材陳列所へ行き、様々な形の墓石を見た。また、そこには墓の所有者の姓と家紋の入った水桶が並べられていた。管理する墓の多さを誇るようであった。

 次に玉川石材店を見学。多磨霊園設立にあたり雑司ヶ谷からこの地に移ってきた老舗である。営業案内の看板には、業務が次のように掲示されていた。「1.各地霊園ご紹介・申込代行(無料ご奉仕)、2.墓所設計・施工、3.墓所営繕工事、4.御埋葬式(寺院ご紹介・お焼香他)、5.御法事貸席(お料理・お引物等)、6.お戒名彫刻(墓碑追加彫)、7.月極清掃・お供花、G植木手入」。墓が必要になってから、設置・維持していく上での一切のことを請け負うのが仕事のようだ。一階を見学。やはり土間の休憩スペースがある。「桜」「松」などと表札の付いた座敷がある。ここで法事を行うのであろう。床がモザイクタイル張り、天井がモルタル装飾のトイレが印象的だった。

サンプルイメージ 石屋さん見学を終え、ようやく多磨霊園内に入る。霊園内の木々は紅葉し、地面を覆う落葉をざくざくと踏み歩く。多磨霊園は、区割道路を通し、広場と道路に沿う樹木・芝生公園を配置し、その内側に各種の墓地や施設を配置するなど、当時のヨーロッパで行われた都市計画的な手法を使って計画され設立されたそうである。霊園は全域を26区に分けており、各区はほぼ180mに区切られ、各区の面積は約1万坪である。各区の間を道路が碁盤の目のように通っている。各区は「側」という小ブロックに分けられている。これらのブロックに基づいて各墓に「○区○種○側○番」というように地番がつけられている。見学者はこの地番をもとに墓を探すのだ。

 一行はまず、名誉霊域通(特別7区)を見学。ここは、国家的勲功があった者を葬る場所として設けられた。昭和10年(1935)、第1号として東郷平八郎の墓が設置された。開園当初はあまり人気がなかったが、東郷平八郎がここに埋葬されると人気が出て利用希望者が増加したという。第2号となった山本五十六の墓も見た。両者とも何の変哲もない普通のお墓であった。

 ここで一旦解散し、各自で好きな墓を見て回ることになった。三島由紀夫の眠る平岡之家墓に近づくと、警備する人たちがいるのに気づいた。「命日が近いので」と警備の方が言っていた。その日は三島の命日11月25日の3日前だった。命日が近いと何が起きるのかと思いを巡らせながら、一見してすぐに退去。

 岸田劉生のお墓は自然石のような墓石で、横に大きな松の幹が迫り寄っている。簡素で風情のあるお墓である。

 集合時間の迫るなか、最後に岡本太郎のお墓を見学。6畳くらいの敷地に太郎の父・一平、母・かの子、太郎の3つの墓碑が建てられている。一平とかの子の墓碑は太郎によって手配されたのだろうか。かの子の墓碑は観音菩薩である。母に対する思いが深く表れていた。一平の墓碑は白い釉薬が施された陶製である。両手を広げた姿で、両胸のくぼみには花と雨水が浮かんでいた。大きく笑う口は強く優しい父の姿である。台座に大きく「一平」と彫られている。後日調べると、一平の墓碑は、1952年に太郎によって制作された作品「顔」で、複数あるうちの1点である。太郎の墓碑は、父と母の墓碑と向かい合うように設置されている。これも同じく太郎の作品で、「午後の日」(1967年)というブロンズ作品である。頬杖をついて父と母の墓碑を見上げる格好である。敷地内には川端康成の文章が彫られた墓碑もあった。太郎の両親への思いや川端との交流が窺えるものであった。それと同時に、自らの作品を墓碑として使い、親子を向かい合わせた配置するなど太郎によってプロデュースされたお墓に彼のプロ意識を感じた。そこには確かに「見せる」意識があった。まるで美術館に来たかのように岡本太郎ワールドを楽しむことができた。

 霊園内のお墓を見て回り、「〜家之墓」という一家の墓の他に、個人名の彫られた墓碑も多かった。多磨霊園開設以降、お墓が故人(あるいは遺族)の自己表現となった一つの傾向を垣間見ることができた。

写真 岸田劉生墓碑、岡本一平かのこ墓碑、岡本太郎墓碑


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