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第9回 師走の遠足 「皇居訪問」

日程

  • 2004年12月23日(土)

案内人

  • 木下直之(東京大学)岡本貴久子(東京大学)
サンプルイメージ

第1回遠足「皇居一周」に続く皇居シリーズ第2弾です。今回は、ふだんは公開されていない西の丸の一部、新宮殿の外観、蓮池濠などを見学します。なお、当日は、天皇御一家が新宮殿のベランダまで出迎えてくださる予定です。そのあと、皇居前広場と明治36年にわが国最初の洋風都市型公園として誕生した日比谷公園を歩き、その歴史と現状について考えます。(皇居担当・・・木下、日比谷公園担当・・・岡本貴久子)



「近代文化」ここに始まる岡本貴久子

 「君は公園のことをそんなに知ってゐるのか、自分は建築のことならともかく、公園の方はまったく初めてだ、実は東京市では日比谷の練兵場跡に大公園を造ることになり、数年来庭師や茶の宗匠などに設計してもらったが、どれもこれも市会を通らない、君一つやってくれないか」(本多静六『体験八十五年』)。辰野金吾に声を掛けられた本多はこうして日比谷公園を造ることになった。開園は1903年(明治36)6月1日。祝田門から園内に入るとまず目に付くのがアーク燈である。1200燭光に照らし出された「近代文化」はここに始まる。  
  ドイツの公園を手本に本多がフリーハンドで描いたというパークウェイに沿って4つのブロックに区切られた園内を、一行は「まず健康!」を説いた本多の公園設計には欠かせない健康広場と呼ばれる三笠山一帯に進んだ。テニスコートを見下ろす高台で「こんなところにあったのか」と会長が指差したのが<自由の鐘>である。1952年(昭和27)、連合軍総司令官リッジウェイを通して米国の篤志家より日本新聞協会に寄贈されたこの鐘は本来、独立宣言を記念する鐘であり、自由という名の近代化を象徴する記念物といえる。日比谷公園には発見がある。
 続いて一行は大正昭和期に末田増子女史が遊戯指導した児童遊園ならびに動物飼育場跡、すなわち今日の草地広場を通り、旧公園資料館に向かった。1904年(明治37)、目黒林試場から移植された樹齢約100年というアメリカスズカケの大木が目印のドイツ風バンガロースタイルの瀟洒な建物は、東京市営繕課技師福田重義の設計(明治43年)によるもので、当時は公園事務所の機能を果たしていた。震災や戦火を免れ、1963年(昭38)6月より公園資料館として開館、1987年(昭和62)に緑の図書室が開設されるまで公園緑地関連を扱う草分け的な存在であった。建物それ自体の価値も認められ、明治の香りをまとった洋風建築物は1990年(平成2)に東京都有形文化財指定(木造部分のみ)を受ける。しかし阪神淡路大震災を契機に耐震性が問題となり1999年(平成11)3月に閉鎖。その後、東京都の民活・規制緩和のひとつとして2004年(平成16)に「文化財の活用・保存事業者」が募集され、旧公園資料館は新たな活路を模索することになる。一行が赴いたのはちょうどこの頃のことである(外観のみ見学)。案内人は募集説明会に参加し資料館内部も隈なく視察したが、会合での事業者側と当局側の発言にみられる文化財に対するそれぞれの認識に温度差を感じたものであった。平成18年度のオープンは如何なることになるやら、と案じていたが、果たしてそれは可愛らしいウェディング・ホール(フェリーチェガーデン日比谷)に生まれ変わっていた。緑の中のこじんまりしたガーデンパーティスタイルに人気が高いという。幸せを結ぶ空間として再生した建物内部には日比谷公園の歴史も展示されている。日比谷公園にひとしく永く愛されるスペースとして今後一層、大事にされることを願う。
 さて一行は咲く花の凍えるような冬の第一花壇を過ぎ、脇のルーパ・ロマーナ像(ローマの牝狼)を見物。昭和13年、日伊親善の記念にパウルッチ候を介して寄贈されたロムルスとメルス兄弟の伝説にちなんだブロンズ彫刻である(余談だが富士講ゆかりの多摩川浅間神社では同時期に「パウルッチ桜」が記念植樹された)。1938年(明治35)植栽の風格ある銀杏並木を辿ればそこは松本楼。欧化主義は公園という近代的装置にあるのみならず、西洋のMenuを嗜むことも近代人には欠かせない要素であった。エレガントなテラスの前にひときわ重厚な存在感を放つ巨木がある。これがよく知られる本多の首かけイチョウである。道路拡幅工事で伐り出されていた老樹のいのちを救うべく、東京市参事会議長の星亨と林学者の首を賭けて、日比谷見附に近い旧鍋島邸内から25日間かけて運搬、見事活着させた大木である。これ以降、本多の大木移植は明治神宮の森造営においても遺憾なく発揮されることになる。1971年(昭和46)には学生運動グループの焼打ちにあって火あぶりとなり、一時は全体にホウタイが巻かれた痛々しい姿をみせたこともあったが、首かけイチョウはその生命力を衰えさせることなく、今日もいのちの営みを続けている。
 ここで脇道に入り、市区改正工事の際に芝増上寺御成門の桜川から移築された石橋を渡れば、目の前に雲形池の水面が広がる。ベルトラムの公園学に倣って本多が造った池である。池など掘って身投げの名所にならないかと批判され、ドブンとやられないよう本多は一間ほどの浅瀬をもうけた。中心に置かれた冬の風物詩として名高い岡崎雪声と津田信夫による鶴の噴水は金属回収で台座が石造りとなった。戦時中は記念像に限らず公園を囲む矢筈形の外柵もみな持っていかれた。三笠山に高射砲陣地が設置され花壇がジャガイモ畑になった時代である。

 霞門側にまわると次に見えるのが3代目の大音楽堂(昭和58年)。初代は1923年(大正12)の造成、集会や式典の会場になることも多く、本多が副会長を務めた都市美協会「植樹デー」のセレモニーが行われたのもこの舞台である。1928年(昭和3)の記念植樹灌水式には渋沢栄一や尾崎行雄が参加し、本多はラジオ放送とともにここから全国に向けて「記念に木をお植ゑなさい」と呼びかけ、緑を植え育むことを推奨した。
 隣に移動すると都立日比谷図書館があって、初代は1908年(明治41)の開館。ここで会長から「何で三角なの?」と意外な質問があった。公園見取り図を見ると本多の引いた2本の道が三角状に分かれている、どうもこの形状に従って設計したらしい、と答えた。会長は納得した。三角柱型の図書館は千代田区日比谷図書館文化館となった。続いて東京市政会館付属日比谷公会堂、佐藤功一設計のもとで時計塔を戴く近代ゴシックの大建造物が完成したのが昭和4年、後藤新平がその生涯を閉じたのも同年のことである。若かりし頃、ドイツ・ミュンヘン大学で本多の世話になった後藤は何の因果か最後に彼自身の追悼集会で世話になったのもまた本多の日比谷公園であった。春の彩りが待ち遠しい地味な葉牡丹が並ぶ第二花壇を眺めたら次は水しぶきが北風に舞う大噴水。帝国ホテル側の日比谷門から入るとまるでこの装飾がメインのように見えるが、実はそうではない。天からもたらされる水を地から噴き上げさせる合理的自然観に基づく噴水は近代的空間演出に効果的な仕掛けだが、新設されたのは比較的新しい1961年(昭和36)、丸の内線開通工事に伴う再整備事業である。それまでは噴水も花壇もなく、競技用トラックを主体とする大運動場が設置されていた。開園以来、国民広場として数多のナショナル・イベントが繰り広げられた儀礼的空間であり、そこでは小音楽堂を正面にして、すなわち宮城に向かって、普通選挙期成同盟大会や日露戦勝、憲法発布20年を祝す記念行事が営まれ、伊藤博文はじめ大山巌、大隈重信、山県有朋等の国葬が粛々と行われた。つまり日比谷公園のメインは大運動場であって、この国民運動広場こそ近代文化の見せ所だったのである。
 さて有楽門に近づいてきた。近代文化の要素はいくつ見つけられたであろうか。しかし案内人はまだ話し足りない。更なるメインの献木の話も県木の話もハナミズキの話も大欅の話もしていない。日比谷公園が文化資源の宝庫といったのはこれだからである。今度は緑麗しい季節に、「生きたる記念物」散策に皆さまをお連れすることにしよう。

 ‥‥‥それから10年がたった。再び訪れてみた日比谷公園は今年満110歳の誕生日を迎える。三笠山の麓に植栽された高さ3mほどに生長した100周年記念樹が真冬の淡い日ざしに包まれていた。本多静六で論文を書くと決めた当時、会長よりお声が掛かった、皇居訪問に合わせて日比谷公園を案内するようにと。メインは宮城、こちらは附録、気楽なものであった。だが本多静六を論ずると決めたからには愉快な遠足も綿密な調査を踏まえた真面目な視察会にしたい、そう思って日比谷公園を巡り歩き、書庫で資料にあたった。園内は文化資源の宝庫である。文化財的価値を有する建築に東京市政会館、福田義重の公園資料館、記念物には自由の鐘やルーパロマーナ像、江戸時代が名残惜しい歴史派には日比谷見付跡に石枡、烏帽子岩、芸術志向なら明治の薫り高い噴水彫刻は見逃せない。一風変わったところでは「ふじ」が持ち帰った南極の石や南太平洋ヤップ島の石貨もある。だが日比谷公園の見所は何をおいてもやはり「みどり」であろう。踏みならされた練兵場跡地に都市型洋風公園として生まれた都会の森、日比谷公園。造林学の大家、本多がこだわった首賭銀杏も、開園時の面影をのこす緩やかな曲線を描く並木道も、記念の老樹大木も、みな既に葉を落とした後だったが、春ともなればまた柔らかな新芽が吹き出し、咲き誇る花々に彩られる。いのちの営みはこうして続けられる。雲形池の鶴の彫刻が「つららの衣」を脱いだら今度はぜひ、さやかな新緑のなかを歩いてみたい。

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